建築について
ここでは、日々の設計の中で建築について考えたことを書いていきます。
設計のプロジェクトではそれぞれの物件ごとに固有の条件に向き合いながらそれに対して最も良い建築になるよう設計を進めていきます。その設計の過程の中には沢山の検討や思考があり、そのプロジェクト固有のものもあれば、そこにとどまらないような射程をもったものもあります。
そのような射程をもった思考を残していくことで、よりよい建築をつくるためのヒントになればと思います。
寂しいということについて
最近は暖かくなり、満開だった桜も散ってきている。 自宅で育てている桜の花も散り始めて、それを見ると少し寂しい気分になる。 そんな折、寂しいという感情はどのようなものなのだろうかと考えてみた。 寂しいという感情は、何かが単に「無い」ことから生じるのではなく、むしろそこに当たり前に存在していたものが、突然消えてしまうことから生じるのではないだろうか。 言い換えれば、寂しさの源泉には、持続していたものの消滅がある。 持続しているものは、私たちの認識の中で次第にその存在感を失っていく。 それは特別な対象ではなくなり、やがて「普通のもの」になる。 つまり、見えてはいるが、意識的には見られていないものとなる。 しかし、このような存在は決して無意味な背景ではない。 むしろそれらは、私たちの生活の基盤として、知らず知らずのうちに私たちの感覚や行動を支え続けている。 街路の曲がり方、建物の並び、日常的に通り抜ける路地、窓から見える景色。 それらは意識の表面ではほとんど顧みられないが、長い時間のなかで私たちの身体感覚に染み込み、私たち自身の一部のようなものになっている。 その意味で、私たちは自己の一部を環境の中に外在化していると言えるのではないだろうか。 環境とは単なる外部ではなく、外部へと拡張された自己でもある。 建築や都市は、まさにその外在化された自己が定着する媒体である。 空間の反復や街並みの持続によって、私たちは自分の生活をそこに織り込み、環境と共に時間を積み重ねていく。 したがって、そのような環境が失われるということは、単に物理的な対象が消えること以上の意味を持つ。 それは、外部に拡張されていた自己の一部が突然切り取られるような出来事であり、そこに胸を切るような感覚が生じるのではないだろうか。 地震や戦争の後に残る更地を前にすると、たとえその場所の当事者でなくとも、言いようのない痛みを感じることがある。 そこには単に建物が失われただけではなく、長い時間の中で蓄積されてきた生活の痕跡や記憶の層が、同時に消失しているからである。 建築とは、空間を作る行為であると同時に、時間を蓄積する器をつくる行為でもある。 そしてその時間の蓄積こそが、環境を私たち自身の延長へと変えていく。 だからこそ建築の消失は、単なる物理的な破壊としてではなく、 そこに重なっていた時間や記憶の断絶として経験される。 寂しさとは、物の欠如ではなく、 持続していた環境と自己との関係が断ち切られる瞬間に現れる感情なのかもしれない。 建築が都市の中で長く存在することの意味は、単に機能を維持することではない。 それは、人々が自己を外在化させる場を持続させ、時間と記憶を蓄積させ続けることである。 その持続が破られたとき、私たちは初めて、そこにあった環境がどれほど深く自分の一部になっていたのかを知るのである。 2026.04上野
