top of page

建築について

ここでは、日々の設計の中で建築について考えたことを書いていきます。

設計のプロジェクトではそれぞれの物件ごとに固有の条件に向き合いながらそれに対して最も良い建築になるよう設計を進めていきます。その設計の過程の中には沢山の検討や思考があり、そのプロジェクト固有のものもあれば、そこにとどまらないような射程をもったものもあります。

そのような射程をもった思考を​残していくことで、よりよい建築をつくるためのヒントになればと思います。

建築の外皮について

最近、沖縄に行く機会があった。今まで沖縄に行ったことがなかったため、車の窓から見える町並みもどこか本土とは違って、非常に面白かった。その中で特に強く感じたのは建築の外皮の在り方の違いだった。 沖縄の町並みでは、外気に対して大らかに開かれた半屋外的なスペースが大きくとられているように感じた。それは暖かい沖縄の気候の良さも影響しているのだろう。そして建築の外観を特徴づけていたのは、それらの半屋外的なスペースを覆う穴あきブロックの多用だった。 今回、おきみゅー(沖縄県立博物館・美術館)を訪れたが、カーテンがうねるような柔らかな形状で、多孔質の外皮がこの建物を特徴づけていた。この外皮は沖縄の町並みの形式を上手く抽象化してつくられているように感じた。そして、それによって生まれた半外部的な空間がおきみゅーの建築の本質的な部分であると思う。そのような半外部的な空間には柔らかに外光が入り込んだ快適な空間になっており、人々が建物へ寄り付きやすくする効果もあるように思う。 しかし、その多孔質の外皮を取り除いて見れば、おきみゅーもシンプルなホワイトキューブの計画であったと思う。その部分については別の可能性を感じた。 おきみゅーの構成は、穴あきブロック的な外皮のその内側に、通常のホワイトキューブを成り立たせているような外皮があるという部分についてである。美術館・博物館であれば収蔵品のための環境づくりとして厳しい要求があるのは想像できるが、ホワイエのような空間を外皮側に持ってくることで、もう少し内側の外皮は弱いものにもできるのではないかと感じた。また、外側の外皮と内側の外皮との間の空間は非常に魅力的な空間であったが、内部のプログラムとは密接に関係しているようには見えなかった。魅力的な空間だからこそ、そこが内部のプログラムと関係し合うような場所であって欲しかったと思う。 外皮について考えたとき、建築の近代化とは、壁厚の中に色々な機能を集約していくことだったのではないかと思う。日本の集落のような建物の在り方では、塀や生垣、縁側、雨戸、深い軒などが緩やかに外的環境を制御していた。そこでは光や風や外気といった要素が緩やかに区切られている。それは、いくつもの境界が重層しているために、個々の境界は緩やかなものでも成り立っていたのだろう。そのような幾重にも重なった緩やかな境界を一つの壁に集約することが、日本の建築における外皮に起こった近代の影響なのではないかと思う。 その文脈で考えると、おきみゅーは近代的な強い外皮はそのままに、その外側に柔らかな外皮を追加している建築と言える。 だとすれば、柔らかな外皮を追加することで、元々の強い外皮を弱めることはできないだろうか。そして、日本建築のように柔らかな外皮が多重に重なることによって、外皮としての性能を成立させるようなことはできないだろうか。それは、近代化の中で一つの壁に集約された機能を、再び複数の境界へと分散させることであるが、それは環境負荷への対応が叫ばれる現代において、改めて合理性があるのではないだろうか。 外皮によって調整しなければならないのは、光・風・視線・温度であり、これらの要素について、それぞれに対応する弱い外皮をつくることで豊かな空間をつくりだすことができるのではないだろうかと想像する。 他にも、とても細長い建築というのもあるのかも知れない。とても細長いことで、両側端部の環境は全く異なるものになる。その環境の違い自体を利用することで、一つの建築の中に複数の環境を成立させることもできるのではないだろうか。 外皮とは単に内と外を隔てるものではなく、光や風や温度といった環境を人に心地が良いように段階的に調整する厚みを持った境界であるとも解釈できる。その意味で、近代建築が一枚の壁に集約した機能を、再び複数の柔らかな境界へと分散させることができるのか。そのことは、これからの外皮を考える上で一つの大きなテーマになるように思う。 2026.06 上野

ChatGPT Image 2026年6月19日 15_40_03.png

​内と外の「あいだ」について

■「あいだ」の現状 私の育った八ヶ岳の裾野の集落には、大きな土間や縁側といった内と外との「あいだ」となる空間が豊かに存在する古い民家が残っていた。そのような「あいだ」の空間は実際の暮らし方にも大きな影響を与えていた。例えば、庭に面した縁側は、近所の人が気軽に立ち寄ることのできる干渉帯として作用していた。また大きな土間は、農作業の場として使われるだけでなく、家と地域、暮らしと仕事を緩やかにつなぐ役割も担っていた。 しかし、新しくつくられる住宅では、古い民家のように「あいだ」を持ったものは少なくなり、代わってハウスメーカーがつくるような nLDK 型の住宅が増えている。そのような住宅では、内と外との「あいだ」となる空間はほとんど見られない。これらは、断熱性や気密性といった外皮性能の向上によって、古い民家では多重の境界によってなんとか成立させていた快適な内部環境が、壁1枚で成立させられるようになったために、 環境的に「あいだ」が不要になった側面もある。 もちろん、外皮性能の向上によって、かつてのような中間領域を設けなくても快適な住環境を実現できるようになったことは歓迎すべきことである。しかしその一方で、内と外が明確に切り分けられ、「あいだ」から生まれる余地も削り取られているように思う。 ■生態系における「あいだ」 生物の多様性も「あいだ」から生まれてくるのではないかと思う。例えば地表面は空と地面の「あいだ」であり、海岸線は陸と海の「あいだ」である。また海水面も海と空の「あいだ」である。 そのような場所には多様な生態系が形成される。一方で、深い地中や高い空中、深海のような単一の環境では、生物の密度も多様性も限定的である。 それは、「あいだ」には複数の環境が重なり合うことで多様な生物学的ニッチといえる環境が生まれてくるのだろう。異なる環境が接する場所ほど、多様な生物が生きる余地が生まれるのではないかと思う。 ■失われた「あいだ」 建築の話に戻ると、近代化や工業化の流れの中で、住宅は経済的合理性を重視する方向へ進んできた。その結果として、床面積や部屋数など金額に換算しやすい部分以外の、縁側や土間のような「あいだ」の空間は次第に失われていったのではないだろうか。 現代の住宅は快適で便利になった。しかし、その豊かさの裏側で、住空間そのものは少しずつ単調になってはいないだろうか。 先ほども書いたように、「あいだ」の喪失は、断熱性や気密性が向上したことで、かつては複数の境界を重ねることでしか実現できなかった快適性が、壁一枚で確保できるようになったという技術的な背景もある。その進歩自体は歓迎すべきものである。 その中で重要なのは、失われた「あいだ」を昔のまま復活させることではなく、現代の技術や暮らし方の中でどのように再構成できるかを考えることだと思う。 ■「内」と「外」ではなく、「こちら側」と「あちら側」 空間体験について考えるとき、「内」と「外」という言葉は必ずしも建物の内部と外部に対応しているわけではない。 むしろ人が感じているのは、「こちら側」と「あちら側」の関係ではないだろうか。 「こちら側」とは、自分が属していると感じる領域であり、安心感や親密さを伴う場所である。一方で「あちら側」は境界の向こうにある領域であり、距離感や未知性を感じる場所である。 例えば住宅の室内は住まい手にとっては「こちら側」だが、門の前に立つ訪問者にとっては「あちら側」である。逆に、その訪問者にとっては街路空間の方が「こちら側」である。 つまり、「こちら側」と「あちら側」は固定されたものではなく、人の立場によって変化する。 ここで「内」と「外」ではなく「こちら側」と「あちら側」という言葉を使うのは、内部と外部という物理的な関係から少し距離を置きたいからである。 そう考えると、縁側や土間のような「あいだ」の空間は、どちらの立場から見ても「こちら側」の延長として感じられる場所なのだと思う。 そこでは双方の「こちら側」が重なり合い、人と人、人と地域との接点が生まれる。 ■「こちら側」が重なる空間構成 では、どのようにすればそのような「あいだ」をつくることができるだろうか。 一つの方法は、異なる領域を横断する要素を用いることである。 例えば床が室内から屋外へ連続すれば縁側になるし、逆に屋外の地面が屋内へ入り込めば土間になる。また、モダニズム建築でよく見られるような内外での仕上げの連続も同じ考え方である。 もう一つの方法は、「こちら側」の濃度に段階をつくることである。 強い囲いの外側に弱い囲いを設け、その外側にさらに緩やかな領域を重ねる。そうすることで、「こちら側」と「あちら側」の間に複数の段階が生まれる。 「内」と「外」の言葉で言い換えれば、 •内の内 •内の外 •外の内 •外の外 といった多層的な空間構造である。 こうした構成によって、「あちら側」からは訪れやすくなり、「こちら側」からは内密性が高まる。開放性と安心感が両立するのである。 また、「こちら側」と「あちら側」が認識の上で反転するような空間も考えられる。 歩いているうちに、先ほどまで「あちら側」だった場所がいつの間にか「こちら側」になっている。そのような体験には、小さな浮遊感や場所性の揺らぎが伴うだろう。そのような空間は「あいだ」を跳躍した「こちら側」と「あちら側」との往還を生み出すことができるものであり、そのような空間も、いつかつくれたらと思う。 ■「あいだ」の可能性 「あいだ」をつくることはいくつかの空間構成の方法によって可能であるし、「あいだ」を持った建築が広がることで生まれるメリットもあると思う。 まず、人が訪れやすくなることである。商業施設であれば、その訪れやすさは売上にもつながるだろうし、公民館のような地域施設であれば、気軽に立ち寄り、自然と人が集まる場所になるかもしれない。わざわざ施設を予約しなくても、なんとなく集まれる場所というのは地域コミュニティにとって有益なのではないかと思う。 また住宅においても、「あいだ」は社会との接点になり得のではないかと考えている。以前設計した住宅では、大きな縁側を設けたことがあった。その住宅では近所に住む施主の友人たちがその縁側を媒体にして気軽に訪れていたし、その縁側での一緒に食事をとるなどそこが家と地域の接点になっていると実感できた。それを見て「あいだ」は人と人との関係を媒介しえるのだろうと思えた。 現代の建築において求められているのは、失われた縁側や土間をそのまま再現することではなく、現代の技術や暮らし方を前提としながら、新しい「あいだ」を見つけ出すことではないかと思う。 そのような空間は、人と地域、人と自然、人と他者との関係をもう一度ゆるやかにつなぎ直す可能性を持っているように思う。 2026.06 上野

内と外の「あいだ」について.png

​「視点」について

概念と世界の見え方について ある概念を想起することによって世界の見え方そのものが変わってしまうことがある。例えばその最もわかりやすい例で言えば、天動説から地動説への変化であり、その他にも進化論など科学的に大きな意味を持つ理論達は少なからず、私たちの見る世界を変えてきた。 そこまで大きなものでなくとも、個人で言えば、ある本や小説を読んだ後で、見える世界が変わって感じることもあるだろう。 空間概念について考えることはこのような世界の見え方の方向づけについて考えることである。どのように自信を取り巻く環境をみるのかという方向づけを、私たちは無意識に行っている。 そして、そのような方向付けの仕方を「視点」と呼ぶとすると、どのような視点を持つかによって、同じ環境でも体感される世界は全く変わってくる。(例えば、科学による世界の記述がなされていないようなコミュニティにおいては、神話のようなコスモロジーによって、世界を見るための視点がもたらされているのだろう。) もう一度、空間概念について考えるということはどういうことかを書いてみると、それは世界に対しての視点をまさぐるということだろう。 そして、ある視点によって世界を記述しようとしたときには、その視点が内包する空間概念によって世界は覆いつくされていく。極端に簡単な例で言えば「高い⇔低い」というような2項対立の視点によって世界を記述しようと思えば、世界のすべてはその「高さ」という基準によって記述されてしまう。それは物理的な高さだけでなく、地位の高さや価値の高さといったものにも波及していくだろう。そして、「高さ」で記述されつくすことで、それ以外のものは見えなくなってしまう。しかし、私たちは「高さ」の視点のみの中では生きてはいないから、それ以外の見え方もあることを知っている。「視点」は環境をある方向から照らして、私たちにそれを見えるようにしてくれるが、その視点以外の視点を覆い隠す役割も孕んでいる。 建築を設計するということは、「世界」をつくることでもある。それはより本質的には「環境」の中に「視点」を与える行為である。「視点」を与えるということは、上記のようにそれ以外の視点を覆い隠してしまうという意味で暴力性を内包している。視点を与えるということは、それ以外の視点を消し去るということだからである。 そういう暴力性を認識していても、建築をつくるためにはどうしても視点を与えなければならない。建築を設計する際のそういう暴力性に自覚的でありたいと思う。そして、そのような視点を与えざるを得ない建築のつくられ方について考えてみたい。 建築設計する上で、私はある空間構成の抽象形とでもいうようなものを構想する。 それはその建築によって生み出される空間を出来るだけ抽象化したものであり、その建築を成り立たせるために最小限必要となる要素を抽出したものある。言い換えれば、その建築・空間の体験にとってもっとも本質的なものを抽出したモデルである。これを「空間の構造」と呼ぶことにする。それは建築の内包する「視点」と緊密な関係にある。「視点」と「空間の構造」との違いは、「視点」が世界をみるためのフィルターだとするならば、「空間の構造」は、空間を抽象化したモデルであり見られるオブジェクト側であるということだろう。ただし、「空間の構造」も実際のオブジェクトではなく、あくまでも抽象化したモデルであるため、「視点」とオブジェクトとのあいだのような性質がある。 視点、環境、世界、空間の構造の関係について、簡単にまとめてみる。 「環境」→「視点」→「世界」 ※認識のフェーズでは、生のままの「環境」は「視点」を与えられるによって、私たちの中で生きられる「世界」になる。 「環境」→「視点」→抽象化→「空間の構造」 ※生のままの「環境」はある「視点」によって抽象化されて「空間の構造」が浮かび上がってくる。 「空間の構造」→建築→「視点」→体験 ※「空間の構造」によってつくられた建築は、その空間の構造が内包する「視点」によって、空間を体験させる。 ある空間の構造を元につくられた空間での体験には、その空間の構造が内包した視点が付与されることになる。言い換えれば、その空間の構造が内包する視点によって世界を「見させられる」という強制力が働く。 それは例えば、神社建築を訪れた際に長い参道を通ってその拝殿まで辿り着いた時に感じる厳かな感覚がそうだろう。私たちはその参道を含めた神社の空間の構造を体験することによって世界を見されられている。 建築はそのような空間体験への強制力を内包している。設計者はそのような強制力を認識しつつ、それをどのようなものにすることで、そこでの体験が豊かになるのかを考えなければならない。 そのような強制力を持ち得る空間の構造をデザインしなければならないとしたら、どうしたら良いのだろうか。 どのような空間であれ、私たちは何らかの形でその空間から強制力を受けている。その強制力をどのような方向性に向けて構成していくかということだろう。 実際的には、そのように「視点」が内包する強制力や暴力性を理解した上で、どれだけ豊かな空間を生み出していけるかを考えていくことになる。しかし、そのような強制力を超えて、そこに「ただある」ような建築がつくれないだろうかと憧れもする。 2026.05 上野

IMG_7818.JPG

寂しいということについて

最近は暖かくなり、満開だった桜も散ってきている。 自宅で育てている桜の花も散り始めて、それを見ると少し寂しい気分になる。 そんな折、寂しいという感情はどのようなものなのだろうかと考えてみた。 寂しいという感情は、何かが単に「無い」ことから生じるのではなく、むしろそこに当たり前に存在していたものが、突然消えてしまうことから生じるのではないだろうか。 言い換えれば、寂しさの源泉には、持続していたものの消滅がある。 持続しているものは、私たちの認識の中で次第にその存在感を失っていく。 それは特別な対象ではなくなり、やがて「普通のもの」になる。 つまり、見えてはいるが、意識的には見られていないものとなる。 しかし、このような存在は決して無意味な背景ではない。 むしろそれらは、私たちの生活の基盤として、知らず知らずのうちに私たちの感覚や行動を支え続けている。 街路の曲がり方、建物の並び、日常的に通り抜ける路地、窓から見える景色。 それらは意識の表面ではほとんど顧みられないが、長い時間のなかで私たちの身体感覚に染み込み、私たち自身の一部のようなものになっている。 その意味で、私たちは自己の一部を環境の中に外在化していると言えるのではないだろうか。 環境とは単なる外部ではなく、外部へと拡張された自己でもある。 建築や都市は、まさにその外在化された自己が定着する媒体である。 空間の反復や街並みの持続によって、私たちは自分の生活をそこに織り込み、環境と共に時間を積み重ねていく。 したがって、そのような環境が失われるということは、単に物理的な対象が消えること以上の意味を持つ。 それは、外部に拡張されていた自己の一部が突然切り取られるような出来事であり、そこに胸を切るような感覚が生じるのではないだろうか。 地震や戦争の後に残る更地を前にすると、たとえその場所の当事者でなくとも、言いようのない痛みを感じることがある。 そこには単に建物が失われただけではなく、長い時間の中で蓄積されてきた生活の痕跡や記憶の層が、同時に消失しているからである。 建築とは、空間を作る行為であると同時に、時間を蓄積する器をつくる行為でもある。 そしてその時間の蓄積こそが、環境を私たち自身の延長へと変えていく。 だからこそ建築の消失は、単なる物理的な破壊としてではなく、 そこに重なっていた時間や記憶の断絶として経験される。 寂しさとは、物の欠如ではなく、 持続していた環境と自己との関係が断ち切られる瞬間に現れる感情なのかもしれない。 建築が都市の中で長く存在することの意味は、単に機能を維持することではない。 それは、人々が自己を外在化させる場を持続させ、時間と記憶を蓄積させ続けることである。 その持続が破られたとき、私たちは初めて、そこにあった環境がどれほど深く自分の一部になっていたのかを知るのである。 2026.04上野

IMG_0353_edited.jpg

スケールについて

建築を考える上でスケールを考えないわけにはいかないが、それについて改めて考える機会があった。 池袋にあるフランク・ロイド・ライトの明日館を久しぶりに見学したが、そこで体験される空間は非常に豊かなものだった。それはライトの建築に独特のスケール感と、そこかしこに散りばめられた装飾が溶け合って生まれてくるものに感じた。 ライトの建築では、天井高を限界まで抑えた空間と吹き抜けのような空間が移り変わることによって、実際のサイズ以上の広がり感を生み出すことに成功している。また、小さなスケールの空間では、空間の広がりというよりも細部に目が行きがちになる。そんな時に散りばめられた装飾が意識に上ってくる。 そんな風に、空間の広がりと装飾による楽しさが両方感じられるというのが、私の感じるライト建築の豊かさを生んでいると思う。 そんな空間を体験したすぐ後に、現地調査のために訪れた場所が、いわゆるロードサイドの風景だった。その地域の幹線道路沿いに店舗が並ぶ風景で、自動車から見えやすいように巨大な看板が建ち並んでいる。多分、日本の地方では割と全国どこでも見かける風景なのではないかと思う。しかし、そこに何か建築を、特にその町を活性化させるような建築をつくろうとしたとき、途方に暮れてしまうような風景でもある。 それは、建ち並ぶ看板が走る自動車からの視認のしやすさによって生まれたものであり、広い道路と相まって、そこに立って歩く人のスケールではない、漠然とした印象の場所に感じられたのも一つの原因なのだと思う。 特にライトの建築を見た後ということもあり、そこを歩くとスケールに圧倒される感覚があった。 例えば道であっても、自動車のために作られた道と旧街道のようにもともと人のためにつくられた道とでは、そこを歩いた時の感覚は全く異なる。やはり、歩いていると旧街道のようなスケール感の方が心地よい。 蛇足ではあるが、自動車というのは人が4人乗れる程度のサイズが最小単位になっていると思うが、それは人のスケール感覚では少し大きい。だから自動車ベースでつくった町は、そこを歩くと少し居心地の悪さを感じてしまう。画一的に4人乗りのサイズベースではなく、もう少し小さいサイズの自動車の単位もあれば、町のあり方ももう少し違ったものになるのではないかと常々思っている。 小さいスケールというのは、人のための空間をつくる上で必要だと思う。例えばロードサイドの風景の中に人のための空間をつくろうとするならば、新しくつくるものによってそのスケールを分節していかなければならない。そういう操作によって、巨大な車のスケールが人の建築のスケールになるのだろう。さらにその建築のスケールでも、よりそれが小さくなっていくと、身体的なスケールと感じられるものになっていく。そしてスケールが小さくなっていくほど、籠もれるような安心できる環境にも近づいていくのではないかと思う。 そのような小さなスケールの空間があることで、ロードサイドの風景のような漠然とした巨大なスケールの風景も、ライトの建築で感じたように、開放感のある豊かな場所というように転化されるのではないだろうか。 別のスケールの空間を挿入することによって、もとあった空間の見え方や感じ方を変えることもできるのだろうと思う。 2026.4上野

スケールについて 明日館.jpg

そこにしかない普通について

普通とは何だろうか。それは私たちの日々の暮らしの中で、当たり前の前提になっているもので、ほとんどの場合、意識に上ってこないものなのではないかと思う。言い換えれば、それは「見えているけれど見てはいないもの」であり、意識の中で背景になっているものである。それは背景になり意識されてはいないけれど、無意識のレベルでむしろ強く私たちに影響しているのではないだろうか。 そもそも、そのような普通というのは、ある個人の中、あるいはその人が属する共同体の持つ経験が源泉となっていたため、すべてがそこにしかない普通であったともいえる。 しかしそれが、情報伝達技術の発展とともに場所から切り離されて、どこでもあってどこでもないような普通になっていったのではないかと思う。 それは新聞やテレビだったり、近年はインターネットやSNSだったりするが、産業革命以降、そのようなメディアの変化によって「普通」の場所性がその土地から引き剥がされてきたのではないだろうか。 そのような傾向は、規格化されて商品化された建築の生産によって現実世界へと定着していった。プレハブ建築やハウスメーカーの住宅は、そのような非場所化した建物を現実に量産したとも言えるだろう。 そのようにして「普通」は場所から引き剥がされてきた。 場所から切り離されることによって生まれた建物は、「外」とは切り離された「内」をつくる必要があったのだと思う。どこにでも建つということは、外の環境に依存せずに成立しなければならないからである。 そのため、日本の建築がもともと発達させてきたような、縁側や土間、深い軒といった外との緩やかな繋がり、一体となる空間の仕組みは衰退していったのではないだろうか。そして内と外とを明確に切り分け、外とは異なる第二の環境を生み出すために、断熱や気密、空調機器などが発達してきたと解釈することもできる。 このような内と外とを明確に分ける第二の環境をつくるというつくり方は今も支配的な価値観であり、省エネ法の改正もあって、この方向性はより強化されてもいる。このように断熱性や空調効率などの建物性能を高めていくことも、もちろん大切なことだと思う。 しかし、第二の自然という外とは全く別の環境をつくるのではなく、外の環境とつながりながらもそれを緩やかに調節するような建築のあり方も模索されるべきなのではないだろうか。例えば温熱環境で言えば、多くの境界があれば、その一つ一つの性能は低くても、その一番内側では快適な環境を保つことができるだろう。あるいは、その場所に吹く風や景色をうまく取り込んで快適な環境をつくることもできるだろう。そういう、その場所にしかない要素から建築をつくっていくこと、そしてそれが小手先のデザインによるものではなく、建築全体の空間構成そのもののベースになっていることによって、その場所に溶け合うような、そこにしかない建築のあり方が生まれてくるのではないだろうか。 そのような建築で暮らすことで、その場所に溶け合うような暮らしが日常化され、無意識の中に内面化されていく。それは場所の豊かさを感じられる、そこにしかない普通をつくることにもつながると思う。 2026.3 上野

そこにしかない普通について OU邸 概念模型2.JPG

「ただある」ことについて

以前、登山をしたときに森の中を歩いていると、ゴロリとした巨石が転がっていた。近寄ってみると、森のしっとりと濡れた空気によって、巨石の表面には苔が生えており、小さな虫も這っていたりする。しかし、そんな表面にこびり付いたものなど関係なしに巨石はそこに転がっている。そんな巨石の存在がそこにあること自体に圧倒的な説得力があるように感じた。 私は建築でもそんなものをつくれないだろうかと思っている。そして、そんなあり方を「ただある」ことと名付けてみたい。そんな「ただある」という感覚は、言葉や意味づけを超えて、ものや空間がそのままに感じられる状態なのでないかと思う。 それはヴォルター・ベンヤミンが『複製時代の芸術作品』で書いているような「アウラを、呼吸する」という感覚に近いのかもしれない。それは「時間と空間が独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。」 そんな「ただある」という在り方について考えるとき、それは記号的に認識される前のものそのものの存在とも関係してくるのではないかと思う。人はものに名前という記号を与えそしてその名前が持つイメージを実際にそこにあるものに重ね合わせて認識しているのではないかと思う。その認識の中で名前の持つイメージが強くなれば、実際にそこにあるものは、見ているようで見ていないし、逆にその名前の持つイメージが認識の中で弱まれば、実際のものの存在感も強く感じられるのではないだろうか。 建築は記号で満ちている。全体の形であれば、屋根、外壁、塀、窓といった名前に分割されていくし、室内を見ても、天井、床、間仕切り、棚などあらゆる部分に名前が与えられている。その記号性は建築をつくる以上どうしても出てくるものであるが、そこにそれ以外の別の論理がなければ、記号的なものの見方が認識の中で前面に現れてくることになるだろう。言い換えると、当たり前の見慣れた建物としてしか認識されない。その建物には特別な豊かさは内包されないのだろうと思う。 では、そのような記号的に認識される、当たり前の見慣れたものを超えた何かをつくることはできないだろうか。考えられるのは、そこに別の論理を導入することである。 ここで空間を認識する際の、最も本質的な構成原理を「空間の構造」と呼ぶことにする。 そのような記号的な認識を超えていくための空間の構造とは、どのようなものだろうか。それは単に空間の形を整えるための枠組みではなく、体験の中で最後に残る、本質的な骨格のようなものである。 そして空間の構造に奉仕するように建築の要素を構成していくことで、建築の持つ記号性を認識の上で、薄めていくことができるのではないだろうか。 通常、建築は屋根や壁、窓といった要素ごとに分節され、それぞれが固有の意味や役割を持つものとして理解される。しかし、それらを個別の記号として扱うのではなく、空間の構造を成立させるための一つの要素として構成していくとき、それぞれの持つ記号性は次第に薄れていく。言い換えれば、要素の名前や意味ではなく、それらがどのような関係性の中で空間を形づくっているのかということが前景化してくる。 このとき、認識の中に立ち現れてくるのは、個々の記号的な要素ではなく、空間の構造そのものである。つまり、記号としての建築が後退し、空間の構造そのものが経験として現れることで、「ただある」という状態に漸近していくのではないだろうか。 この空間の構造は、そこに身を置く人にとっての「普通」を形づくる基盤にもなる。私たちが日常の中で無意識に受け入れている空間のあり方や振る舞いは、この空間の構造によって規定されている。そう考えると、これは普通の構造をデザインすることであり、結果として、少し豊かになった普通をつくりだすことにもつながるのではないだろうか。 2026.03 上野

S__15433741.jpg

「〇〇について」について

現代は価値観が多様化しているということをよく耳にします。そのような多様化というのは、界隈という言葉が一般化していることに象徴されているように、気の合う仲間達が形成している独自のコミュニティのようなものが無数に生まれているというような状況といえるのではないかと思います。それは構造的にはSNSの広がりによって、誰もが自分なりの価値観や物語を簡単に発信できるようになり、そして近しい価値観の人とつながることが簡単にできることが助長しているのでしょう。 それ以前、高度成長期には多くの人が同じ価値観を共有していた時代でした。少なくともそこから外れた価値観を持つことはマイノリティだったのではないかと思います。 こうした変化は、建築の考え方にも大きく影響しています。近代建築の時代には、ル・コルビュジエが『建築をめざして』の中で示したように、「建築はこうあるべきだ」という明確な理想が存在していました。そして、そのマニフェストともいえる強い主張は多くの建築の指針となりました。 また、高度成長期の日本であればnLDKというシステムが発明され、それが核家族のような理想の家族像としてつくられたパッケージと合わせて供給され、私たちの中に行き渡っていきました。 しかし現在では、そのように一つの理想像を示すことは難しくなっています。建築を取り巻く条件は、地域や社会、経済、さらには個人の価値観によって大きく異なり、それらが複雑に重なり合っているからです。ある場所では評価される建築が、別の場所では全く違う意味を持つことも珍しくありません。建築を一つの価値基準で語りきるのは難しいでしょう。 このような時代に「建築をめざして」ある単一の理想像を追い求めていくことも難しいのではないかと思います。 今、建築について考えようとしたとき、それはひとつの理想に向かって整理された理論をつくることではなく、むしろ断片的な「建築について」思考を積み重ねていくことによってそれを浮かび上がらせることなのではないかと思います。 それは例えばヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』のようは方法です。 ベンヤミンは、19世紀のパリの都市空間を、一つのまとまった物語としてではなく、断片的な記述や引用を積み重ねることで描き出しました。それぞれの断片は独立しているようでありながら、そのあいだに生まれる関係や余白から、都市の姿が浮かび上がってきます。 同じように、建築についての思考の断片から浮かび上がってくるものもあるのではないでしょうか。当然ベンヤミンのような構成を生み出すためには緻密な編纂が必要になってきますし、そのための方法を構築する必要もあるでしょう。しかしまずは建築についても断片を集積させることが必要なのだと思います。 「〇〇について」というのは、考え続けるための枠組みであり、断片的な思考を積み重ねていくための方法です。 これによって、よりよい建築をつくるための何かが、少しでもつかめればと思います。 2026.3 上野

UH×

​一級建築士事務所UH×  /  愛知県名古屋市の建築家・建築設計事務所

【TEL】     052-217-1712   /   090-7300-5734

【MAIL】                    ueno.UHx@outlook.jp

【所在地】   愛知県名古屋市中区金山5丁目1-1 ヴァンティアン金山501

新築・リノベーション・住宅・店舗・オフィス・学校・幼稚園・福祉施設・公共施設など、

愛知県・岐阜県・三重県・東海三県のほか、全国どちらでもご相談を承っております。

お気軽に上記【TEL】【MAIL】またはお問い合わせよりご連絡ください。

  • Instagram
  • Twitter
bottom of page