建築について
ここでは、日々の設計の中で建築について考えたことを書いていきます。
設計のプロジェクトではそれぞれの物件ごとに固有の条件に向き合いながらそれに対して最も良い建築になるよう設計を進めていきます。その設計の過程の中には沢山の検討や思考があり、そのプロジェクト固有のものもあれば、そこにとどまらないような射程をもったものもあります。
そのような射程をもった思考を残していくことで、よりよい建築をつくるためのヒントになればと思います。
建築の外皮について
最近、沖縄に行く機会があった。今まで沖縄に行ったことがなかったため、車の窓から見える町並みもどこか本土とは違って、非常に面白かった。その中で特に強く感じたのは建築の外皮の在り方の違いだった。 沖縄の町並みでは、外気に対して大らかに開かれた半屋外的なスペースが大きくとられているように感じた。それは暖かい沖縄の気候の良さも影響しているのだろう。そして建築の外観を特徴づけていたのは、それらの半屋外的なスペースを覆う穴あきブロックの多用だった。 今回、おきみゅー(沖縄県立博物館・美術館)を訪れたが、カーテンがうねるような柔らかな形状で、多孔質の外皮がこの建物を特徴づけていた。この外皮は沖縄の町並みの形式を上手く抽象化してつくられているように感じた。そして、それによって生まれた半外部的な空間がおきみゅーの建築の本質的な部分であると思う。そのような半外部的な空間には柔らかに外光が入り込んだ快適な空間になっており、人々が建物へ寄り付きやすくする効果もあるように思う。 しかし、その多孔質の外皮を取り除いて見れば、おきみゅーもシンプルなホワイトキューブの計画であったと思う。その部分については別の可能性を感じた。 おきみゅーの構成は、穴あきブロック的な外皮のその内側に、通常のホワイトキューブを成り立たせているような外皮があるという部分についてである。美術館・博物館であれば収蔵品のための環境づくりとして厳しい要求があるのは想像できるが、ホワイエのような空間を外皮側に持ってくることで、もう少し内側の外皮は弱いものにもできるのではないかと感じた。また、外側の外皮と内側の外皮との間の空間は非常に魅力的な空間であったが、内部のプログラムとは密接に関係しているようには見えなかった。魅力的な空間だからこそ、そこが内部のプログラムと関係し合うような場所であって欲しかったと思う。 外皮について考えたとき、建築の近代化とは、壁厚の中に色々な機能を集約していくことだったのではないかと思う。日本の集落のような建物の在り方では、塀や生垣、縁側、雨戸、深い軒などが緩やかに外的環境を制御していた。そこでは光や風や外気といった要素が緩やかに区切られている。それは、いくつもの境界が重層しているために、個々の境界は緩やかなものでも成り立っていたのだろう。そのような幾重にも重なった緩やかな境界を一つの壁に集約することが、日本の建築における外皮に起こった近代の影響なのではないかと思う。 その文脈で考えると、おきみゅーは近代的な強い外皮はそのままに、その外側に柔らかな外皮を追加している建築と言える。 だとすれば、柔らかな外皮を追加することで、元々の強い外皮を弱めることはできないだろうか。そして、日本建築のように柔らかな外皮が多重に重なることによって、外皮としての性能を成立させるようなことはできないだろうか。それは、近代化の中で一つの壁に集約された機能を、再び複数の境界へと分散させることであるが、それは環境負荷への対応が叫ばれる現代において、改めて合理性があるのではないだろうか。 外皮によって調整しなければならないのは、光・風・視線・温度であり、これらの要素について、それぞれに対応する弱い外皮をつくることで豊かな空間をつくりだすことができるのではないだろうかと想像する。 他にも、とても細長い建築というのもあるのかも知れない。とても細長いことで、両側端部の環境は全く異なるものになる。その環境の違い自体を利用することで、一つの建築の中に複数の環境を成立させることもできるのではないだろうか。 外皮とは単に内と外を隔てるものではなく、光や風や温度といった環境を人に心地が良いように段階的に調整する厚みを持った境界であるとも解釈できる。その意味で、近代建築が一枚の壁に集約した機能を、再び複数の柔らかな境界へと分散させることができるのか。そのことは、これからの外皮を考える上で一つの大きなテーマになるように思う。 2026.06 上野

内と外の「あいだ」について
■「あいだ」の現状 私の育った八ヶ岳の裾野の集落には、大きな土間や縁側といった内と外との「あいだ」となる空間が豊かに存在する古い民家が残っていた。そのような「あいだ」の空間は実際の暮らし方にも大きな影響を与えていた。例えば、庭に面した縁側は、近所の人が気軽に立ち寄ることのできる干渉帯として作用していた。また大きな土間は、農作業の場として使われるだけでなく、家と地域、暮らしと仕事を緩やかにつなぐ役割も担っていた。 しかし、新しくつくられる住宅では、古い民家のように「あいだ」を持ったものは少なくなり、代わってハウスメーカーがつくるような nLDK 型の住宅が増えている。そのような住宅では、内と外との「あいだ」となる空間はほとんど見られない。これらは、断熱性や気密性といった外皮性能の向上によって、古い民家では多重の境界によってなんとか成立させていた快適な内部環境が、壁1枚で成立させられるようになったために、 環境的に「あいだ」が不要になった側面もある。 もちろん、外皮性能の向上によって、かつてのような中間領域を設けなくても快適な住環境を実現できるようになったことは歓迎すべきことである。しかしその一方で、内と外が明確に切り分けられ、「あいだ」から生まれる余地も削り取られているように思う。 ■生態系における「あいだ」 生物の多様性も「あいだ」から生まれてくるのではないかと思う。例えば地表面は空と地面の「あいだ」であり、海岸線は陸と海の「あいだ」である。また海水面も海と空の「あいだ」である。 そのような場所には多様な生態系が形成される。一方で、深い地中や高い空中、深海のような単一の環境では、生物の密度も多様性も限定的である。 それは、「あいだ」には複数の環境が重なり合うことで多様な生物学的ニッチといえる環境が生まれてくるのだろう。異なる環境が接する場所ほど、多様な生物が生きる余地が生まれるのではないかと思う。 ■失われた「あいだ」 建築の話に戻ると、近代化や工業化の流れの中で、住宅は経済的合理性を重視する方向へ進んできた。その結果として、床面積や部屋数など金額に換算しやすい部分以外の、縁側や土間のような「あいだ」の空間は次第に失われていったのではないだろうか。 現代の住宅は快適で便利になった。しかし、その豊かさの裏側で、住空間そのものは少しずつ単調になってはいないだろうか。 先ほども書いたように、「あいだ」の喪失は、断熱性や気密性が向上したことで、かつては複数の境界を重ねることでしか実現できなかった快適性が、壁一枚で確保できるようになったという技術的な背景もある。その進歩自体は歓迎すべきものである。 その中で重要なのは、失われた「あいだ」を昔のまま復活させることではなく、現代の技術や暮らし方の中でどのように再構成できるかを考えることだと思う。 ■「内」と「外」ではなく、「こちら側」と「あちら側」 空間体験について考えるとき、「内」と「外」という言葉は必ずしも建物の内部と外部に対応しているわけではない。 むしろ人が感じているのは、「こちら側」と「あちら側」の関係ではないだろうか。 「こちら側」とは、自分が属していると感じる領域であり、安心感や親密さを伴う場所である。一方で「あちら側」は境界の向こうにある領域であり、距離感や未知性を感じる場所である。 例えば住宅の室内は住まい手にとっては「こちら側」だが、門の前に立つ訪問者にとっては「あちら側」である。逆に、その訪問者にとっては街路空間の方が「こちら側」である。 つまり、「こちら側」と「あちら側」は固定されたものではなく、人の立場によって変化する。 ここで「内」と「外」ではなく「こちら側」と「あちら側」という言葉を使うのは、内部と外部という物理的な関係から少し距離を置きたいからである。 そう考えると、縁側や土間のような「あいだ」の空間は、どちらの立場から見ても「こちら側」の延長として感じられる場所なのだと思う。 そこでは双方の「こちら側」が重なり合い、人と人、人と地域との接点が生まれる。 ■「こちら側」が重なる空間構成 では、どのようにすればそのような「あいだ」をつくることができるだろうか。 一つの方法は、異なる領域を横断する要素を用いることである。 例えば床が室内から屋外へ連続すれば縁側になるし、逆に屋外の地面が屋内へ入り込めば土間になる。また、モダニズム建築でよく見られるような内外での仕上げの連続も同じ考え方である。 もう一つの方法は、「こちら側」の濃度に段階をつくることである。 強い囲いの外側に弱い囲いを設け、その外側にさらに緩やかな領域を重ねる。そうすることで、「こちら側」と「あちら側」の間に複数の段階が生まれる。 「内」と「外」の言葉で言い換えれば、 •内の内 •内の外 •外の内 •外の外 といった多層的な空間構造である。 こうした構成によって、「あちら側」からは訪れやすくなり、「こちら側」からは内密性が高まる。開放性と安心感が両立するのである。 また、「こちら側」と「あちら側」が認識の上で反転するような空間も考えられる。 歩いているうちに、先ほどまで「あちら側」だった場所がいつの間にか「こちら側」になっている。そのような体験には、小さな浮遊感や場所性の揺らぎが伴うだろう。そのような空間は「あいだ」を跳躍した「こちら側」と「あちら側」との往還を生み出すことができるものであり、そのような空間も、いつかつくれたらと思う。 ■「あいだ」の可能性 「あいだ」をつくることはいくつかの空間構成の方法によって可能であるし、「あいだ」を持った建築が広がることで生まれるメリットもあると思う。 まず、人が訪れやすくなることである。商業施設であれば、その訪れやすさは売上にもつながるだろうし、公民館のような地域施設であれば、気軽に立ち寄り、自然と人が集まる場所になるかもしれない。わざわざ施設を予約しなくても、なんとなく集まれる場所というのは地域コミュニティにとって有益なのではないかと思う。 また住宅においても、「あいだ」は社会との接点になり得のではないかと考えている。以前設計した住宅では、大きな縁側を設けたことがあった。その住宅では近所に住む施主の友人たちがその縁側を媒体にして気軽に訪れていたし、その縁側での一緒に食事をとるなどそこが家と地域の接点になっていると実感できた。それを見て「あいだ」は人と人との関係を媒介しえるのだろうと思えた。 現代の建築において求められているのは、失われた縁側や土間をそのまま再現することではなく、現代の技術や暮らし方を前提としながら、新しい「あいだ」を見つけ出すことではないかと思う。 そのような空間は、人と地域、人と自然、人と他者との関係をもう一度ゆるやかにつなぎ直す可能性を持っているように思う。 2026.06 上野

「視点」について
概念と世界の見え方について ある概念を想起することによって世界の見え方そのものが変わってしまうことがある。例えばその最もわかりやすい例で言えば、天動説から地動説への変化であり、その他にも進化論など科学的に大きな意味を持つ理論達は少なからず、私たちの見る世界を変えてきた。 そこまで大きなものでなくとも、個人で言えば、ある本や小説を読んだ後で、見える世界が変わって感じることもあるだろう。 空間概念について考えることはこのような世界の見え方の方向づけについて考えることである。どのように自信を取り巻く環境をみるのかという方向づけを、私たちは無意識に行っている。 そして、そのような方向付けの仕方を「視点」と呼ぶとすると、どのような視点を持つかによって、同じ環境でも体感される世界は全く変わってくる。(例えば、科学による世界の記述がなされていないようなコミュニティにおいては、神話のようなコスモロジーによって、世界を見るための視点がもたらされているのだろう。) もう一度、空間概念について考えるということはどういうことかを書いてみると、それは世界に対しての視点をまさぐるということだろう。 そして、ある視点によって世界を記述しようとしたときには、その視点が内包する空間概念によって世界は覆いつくされていく。極端に簡単な例で言えば「高い⇔低い」というような2項対立の視点によって世界を記述しようと思えば、世界のすべてはその「高さ」という基準によって記述されてしまう。それは物理的な高さだけでなく、地位の高さや価値の高さといったものにも波及していくだろう。そして、「高さ」で記述されつくすことで、それ以外のものは見えなくなってしまう。しかし、私たちは「高さ」の視点のみの中では生きてはいないから、それ以外の見え方もあることを知っている。「視点」は環境をある方向から照らして、私たちにそれを見えるようにしてくれるが、その視点以外の視点を覆い隠す役割も孕んでいる。 建築を設計するということは、「世界」をつくることでもある。それはより本質的には「環境」の中に「視点」を与える行為である。「視点」を与えるということは、上記のようにそれ以外の視点を覆い隠してしまうという意味で暴力性を内包している。視点を与えるということは、それ以外の視点を消し去るということだからである。 そういう暴力性を認識していても、建築をつくるためにはどうしても視点を与えなければならない。建築を設計する際のそういう暴力性に自覚的でありたいと思う。そして、そのような視点を与えざるを得ない建築のつくられ方について考えてみたい。 建築設計する上で、私はある空間構成の抽象形とでもいうようなものを構想する。 それはその建築によって生み出される空間を出来るだけ抽象化したものであり、その建築を成り立たせるために最小限必要となる要素を抽出したものある。言い換えれば、その建築・空間の体験にとってもっとも本質的なものを抽出したモデルである。これを「空間の構造」と呼ぶことにする。それは建築の内包する「視点」と緊密な関係にある。「視点」と「空間の構造」との違いは、「視点」が世界をみるためのフィルターだとするならば、「空間の構造」は、空間を抽象化したモデルであり見られるオブジェクト側であるということだろう。ただし、「空間の構造」も実際のオブジェクトではなく、あくまでも抽象化したモデルであるため、「視点」とオブジェクトとのあいだのような性質がある。 視点、環境、世界、空間の構造の関係について、簡単にまとめてみる。 「環境」→「視点」→「世界」 ※認識のフェーズでは、生のままの「環境」は「視点」を与えられるによって、私たちの中で生きられる「世界」になる。 「環境」→「視点」→抽象化→「空間の構造」 ※生のままの「環境」はある「視点」によって抽象化されて「空間の構造」が浮かび上がってくる。 「空間の構造」→建築→「視点」→体験 ※「空間の構造」によってつくられた建築は、その空間の構造が内包する「視点」によって、空間を体験させる。 ある空間の構造を元につくられた空間での体験には、その空間の構造が内包した視点が付与されることになる。言い換えれば、その空間の構造が内包する視点によって世界を「見させられる」という強制力が働く。 それは例えば、神社建築を訪れた際に長い参道を通ってその拝殿まで辿り着いた時に感じる厳かな感覚がそうだろう。私たちはその参道を含めた神社の空間の構造を体験することによって世界を見されられている。 建築はそのような空間体験への強制力を内包している。設計者はそのような強制力を認識しつつ、それをどのようなものにすることで、そこでの体験が豊かになるのかを考えなければならない。 そのような強制力を持ち得る空間の構造をデザインしなければならないとしたら、どうしたら良いのだろうか。 どのような空間であれ、私たちは何らかの形でその空間から強制力を受けている。その強制力をどのような方向性に向けて構成していくかということだろう。 実際的には、そのように「視点」が内包する強制力や暴力性を理解した上で、どれだけ豊かな空間を生み出していけるかを考えていくことになる。しかし、そのような強制力を超えて、そこに「ただある」ような建築がつくれないだろうかと憧れもする。 2026.05 上野

寂しいということについて
最近は暖かくなり、満開だった桜も散ってきている。 自宅で育てている桜の花も散り始めて、それを見ると少し寂しい気分になる。 そんな折、寂しいという感情はどのようなものなのだろうかと考えてみた。 寂しいという感情は、何かが単に「無い」ことから生じるのではなく、むしろそこに当たり前に存在していたものが、突然消えてしまうことから生じるのではないだろうか。 言い換えれば、寂しさの源泉には、持続していたものの消滅がある。 持続しているものは、私たちの認識の中で次第にその存在感を失っていく。 それは特別な対象ではなくなり、やがて「普通のもの」になる。 つまり、見えてはいるが、意識的には見られていないものとなる。 しかし、このような存在は決して無意味な背景ではない。 むしろそれらは、私たちの生活の基盤として、知らず知らずのうちに私たちの感覚や行動を支え続けている。 街路の曲がり方、建物の並び、日常的に通り抜ける路地、窓から見える景色。 それらは意識の表面ではほとんど顧みられないが、長い時間のなかで私たちの身体感覚に染み込み、私たち自身の一部のようなものになっている。 その意味で、私たちは自己の一部を環境の中に外在化していると言えるのではないだろうか。 環境とは単なる外部ではなく、外部へと拡張された自己でもある。 建築や都市は、まさにその外在化された自己が定着する媒体である。 空間の反復や街並みの持続によって、私たちは自分の生活をそこに織り込み、環境と共に時間を積み重ねていく。 したがって、そのような環境が失われるということは、単に物理的な対象が消えること以上の意味を持つ。 それは、外部に拡張されていた自己の一部が突然切り取られるような出来事であり、そこに胸を切るような感覚が生じるのではないだろうか。 地震や戦争の後に残る更地を前にすると、たとえその場所の当事者でなくとも、言いようのない痛みを感じることがある。 そこには単に建物が失われただけではなく、長い時間の中で蓄積されてきた生活の痕跡や記憶の層が、同時に消失しているからである。 建築とは、空間を作る行為であると同時に、時間を蓄積する器をつくる行為でもある。 そしてその時間の蓄積こそが、環境を私たち自身の延長へと変えていく。 だからこそ建築の消失は、単なる物理的な破壊としてではなく、 そこに重なっていた時間や記憶の断絶として経験される。 寂しさとは、物の欠如ではなく、 持続していた環境と自己との関係が断ち切られる瞬間に現れる感情なのかもしれない。 建築が都市の中で長く存在することの意味は、単に機能を維持することではない。 それは、人々が自己を外在化させる場を持続させ、時間と記憶を蓄積させ続けることである。 その持続が破られたとき、私たちは初めて、そこにあった環境がどれほど深く自分の一部になっていたのかを知るのである。 2026.04上野
